昭和52年07月26日 朝の御理解
御理解 第2節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るのは神徳じゃ。神徳は、信心すれば誰でも受けることが出来る。みてる(尽きる)ということがない。」
信心をすれば誰でも御神徳が受けれられる。どういう信心をさせて頂いたら徳が受けられるか、教祖がお徳の受けられる信心とは、どういう意味でここで信心と言っておられるのだろうかと。沢山なお道の信奉者がありますけれども、御神徳を受けたという人達はたくさんはない。ところがここでは誰でもが受けられる、御神徳が受けられる信心に縁を頂きながら、また御神徳をこう言う生き方になれば受けられるぞと教えておられるにもかかわらず、そういう信心をせず。
そういう教えを自分の物にしない所におかげが受けられん、お徳を受けられる信心とはどういう信心か。私はいつも思うのですけども、教祖様は嘘を仰ってないんだと、教祖の御教えは絶対だと、と言う様な思い込みをまずは頂かにゃならん。教祖様もまあ言うなら嘘ばっかりを言うておられると、信心すればだぁれでも御神徳が受けられるとここに簡単に書いておられるけれども。
なら御神徳を受けたという信者教師がどれだけあるか、はあ是が御神徳というのであろうかと言われるようにあの 世にも持って行かれ子孫にも残るという程しの神徳を受けた者が何人あるか。そうすると教祖が嘘を仰ったと言う事になる、ですからそういう頂き方ではなくて、教祖は嘘を仰ってないんだと、教祖様が仰る所の信心とはどういう信心なのか、信心すれば誰でもが受けられると言う様な信心とはどういう信心かと。中々お徳を受けると言った様な事が本当に簡単に出来るとは思いませんけれども。
矢張り御神徳を受けさせて頂くためには、どういう信心をさせて頂いたらよいかということを始終自分の心において、生活の上にも神信心の上にも、その事を思いつづけ祈り続け、行じ続けていって、初めて御神徳が頂ける。私はいつもそういう例を取ります、昔子供の時に( ? )を見た、綺麗な娘さんが向こうの方に、壁にたってこうやって手を広げて立っておる、それをこちらから離れた所から手裏剣を投げる、もうそれこそ首のこんな所に剣が入って来る。
手をこんなにしとる所に、手の指と指との間に剣が入っていく、大変な技術こうやって立っておる方もまばたきもしない、あれは投げる方の人の技術を信じてなかったら、とても立っておれませんよね、顔にくるやらどこに来るやら分からない、投げる者も投げる者も、それをこうやって立っておる者、大変な熟練がいる事だろうとこう思うのです。ですからねもう神様が投げて下さるのですから、もう絶対間違いがない教祖様がいうておられるのだから絶対間違いがないという。
いうなら信心ここでは信心と言う事を信じる心と書いてある。教祖様は信心と言う事を色々に書いておられます。御伝記なんかを読ませて頂きますと、ひらがなで「しんじん」と書かれたり、真心と書いてしんじんと読ませたり、信じる心と書いてしんじんと。または神の心と書いて神心というふうにも表現しておられる。ここでは信じる心とあります、だからその信じる心なんです。それに例えば教祖様の御教えが絶対間違いのない、いわゆる集権を何々様が、例えば教祖様と致しましょうか。
それでこちらがそれを信じてこうやって立ってさえおりゃもう、絶対に危ない事はない間違いはないのだけれども、はっと思うてはっ危ないと思うてから、ちょと首を横ににしたり体を言うならばそこに迷いが起こったり信じる心が緩い、違うてくるから神様が投げなさる教祖が投げなさる手裏剣には間違いないのだけれども、こちらの方が信じる心がない為に手に刺さったり、首に刺さったりす様な事になるのじゃないだろうか。
それを完全に受け止める事がまあ、例えば神徳を受けると言う事であるならば、そういう信心をです、身につけていかなければならない。それこそどの様な場合であっても、信心するものは驚いてはならんと仰る、その驚かんですむ信心。ですから神様の働き、または御教えに一分一厘間違いはないのだけれども、こちらに一分の間違いがあれば、一分の狂い一寸違えや一寸の狂いと言う風に頂いてです、愈々その事が的確に頂けるようになる精進をして行くのです。
向こうに的がある、的は動かない、それをこちらから弓矢をもって、それを射ると致しましょうか、なかなか的に命中しない。それを段々段々稽古して行くうちに、それこそ的の中心にプス、プスと入って行く様になるように、的が外れて当らなかったからおかげを頂ききらんじゃったじゃなくて、こちらの信心の方が間違っておるから当らなかったんだと言う頂き方なんです。だから神様を絶対と教祖の御教えを絶対な物として、私共がその絶対に向かって近付いて行く信心の稽古がなさならなきゃいかんのです。
それを中途半端でやめるから、教祖様もちょっとオーバーに言うてござるとか、まあそんなわけにはいかんと言う様に、なら教えを右左にする。だんだん後者に成って参りますと、昨日も一昨日から宮崎から参っておられる、ある教会の長年総代を勤められて、息子さんがこちらで大変おかげを頂いて、それからご自分もお参りされるようになって、今度○少に孫達がおかげを頂きたい、合楽から行きたいというので、お爺さんもついて参って来た訳なんです。
今日も只今御祈念を頂いておられます、それはもう本当に例えば、教典なんかもまる暗記しておられるごたる感じです、長年の信心ですからね、ですから昨、ちょっと研修の時に発表しておられましたが、西岡先生がその方に発表して下さい、先日からあなたが言いよんなさった事やら、又ここにみえてから一時の御祈念を頂かれて、そして感じられた事を話して下さいと言って、言っておられましたから話した。
お部屋がないものですから西岡先生の部屋で休んでおられる、とてもとにかく合楽の一時の御祈念を頂いてご覧なさい、それはもう皆で一生懸命に、それこそ大祓い信行があって、これはもう本当に中に入っとるだけでもが有り難いですよと。したらその方が言われる事は、金光様の御信心は、教祖様がどう教えておられるかというと、決して大きな声をする事はいらん、人に物を言うとおりに拝めと、大きな声を出したりふちをつたりする事はいらんと、小さい声でも神は聞こえると仰るから。
そういう大きな声をあげてから皆で大祓いを挙げるというのは、ちったおかしいとそういう意味の事をいわれた。まあとにかくなら明日ひとつ一時の御祈念を頂いてご覧なさいと。でまあ一時の御祈念を頂かれてです、初めてあの大祓い信行の、夏期信行の中に入ってね、わけは分からんなりに感動したと、昨日は発表しておられた。私もそう思うとった。決して大きな声をはりあげる事もいらなければ、ふしをつける事もいらん小さい音でも神には聞こえる。
だから大きな声であげとるのはどうもおかしいんじゃないかと、それこそ特に若い方たちの場合なんかは、もう一生懸命ですから、もう自ずと体もこうやって、いわば覚えてくる。一つのリズムが流れてくる生まれてくる、そのリズムに乗って体の調子とりながら、いうなら一生懸命大祓いを上げておる、だからそれを見ただけであったならばどうも合楽の信心はおかしいぞと、そんなにひのおらびする事はいらんとに、もうそれこそ、汗水流してひのおらびしてあげんでんと。
けれども実際にその場に中に入ってみて、一緒に御祈念をしておる内にです、今までかつて感じた事のなかった感動にむせんでおられる事を、むせんだと言う事を昨日、発表しておられた。段々信心が巧者になるとね、おげを御教えをおかげの受けられない方へ、受けられない方へと傾向が確かにあるです、教えをタテにとって人を責めたり、教えをタテにとって、おかげの受けられない方に、私は教祖様の御教えのすべてがね、おかげの頂けれるようにいただかにゃいかん。
お徳が頂ける受け方をしなければいけないのです。合楽で私が日々説かせて頂く教祖様のみ教えは、もう必ずそれを行ずればおかげが受けられる、それを行ずればお徳になる、いうならば頂き方を私自身が頂いて皆さんに聞いて頂いておるんです。ですから御教えを頂く時にはまず皆さんが今日は白紙にならなければいけんですよ、いつも親先生昨日はあげなこついいよんなさった、今日はまたずっと反対な事を言いよんなさると言った様な事もあるのです。
教祖のこの御教えを紐解きますとそういう、いうならば不符合な所があります。反対な事を言うておられる事がある。けどもそれはね子供に教える、青年に教える年寄りに教える、それを同じ事ではいけないでしょう、分からないでしょうそれが御教えなんです。子供には子供に向いた様に教えておられるし、婦人には婦人に向いた様に教えておられるのです。だから婦人に対しての御理解を頂いて、教祖はあんな事を言いよんなさるというたら、もうおかげは受けられん。
例えそれが白が赤と言われてもです、おかげが受けられる様に又お徳が頂ける様な頂き方を身に着けて行かなければ行けんのです。それにはいつも御教えを拝聴する時には白紙でなかなければならないと言う子です。今日は私は今日はねこの御理解第二節を頂いたんですけど、最初はこっちの方を大体頂いたんです。白紙の所を何もない所何もないから、今日は神様が教えを拝聴する時の心構えというのは、言うならこの白紙だと。
そしていうなら信心して、教祖の御教えの全てがお徳を頂く事の為の御教えばかりですが、信心すればだれでもが受けられる。教祖様の御教えを本気で行じて、本気で稽古していくならば、始めの間は分からない、けれどもそれを元に、言わば目当てに一生懸命一心、無茶苦茶になるだけはつまらん、無茶苦茶な信心をして50年も信心をして、50年も信心をとるというたっちゃダメです。
的をキチッと焦点をそこに定め、例えばならここで今言われる、合楽理念なら合楽理念という、それを目当てにしてそれに近づく、それに的に当たるように一生懸命稽古するならば必ず上達するのです。ただ、拝みさえすりゃいい、参りさえすりゃいいで、ただ無茶苦茶に投げたっちゃ上達するはずが絶対ない。だから、日々のみ教えを本気で行の上に現していくという生き方をさせて頂くと、成程神様は一分一厘間違いな事を教えてはおれないと言う事が段々分かって来る様に成る。
それを確信致すその確信をもって、言うならば教祖の前にはたがっておく。教祖様が手裏剣を投げなさる、投げる者も受ける者も微動だもない、確信を持って投げ確信を持って受けていく。そこに一分一厘間違いのない働き、一分一厘間違いのない働きを受けると言う事は、もう既にあなたはお徳を受けたと言う事になるのです。信心すれば誰でも御神徳が受けられる。その例えば教えを右左にし、しだごだにしてです、親先生はあー言いなさるばってんと言うような人もやっぱりあります。
御教えを拝聴する時には白紙。そこで言うならその信心どういう信心をさせて頂いたら、なら御神徳が受けられるか。まあ言うならば信ずる心を愈々創って行くと言う事ですけれども、具体的に言うならどう言う事なのか。皆さんが合楽理念、昨日の御理解の後に、昨日の研修の時に意外な事を聞く感じがしたんですけれども、はあ成程教えというものは繰り返し繰り返し頂かなければならないものなんだなあと思った事は、ここに修行しとる矢野先生とそれから。
イワベ先生が二人が同じ様な発表をしておりました。昨日研修の時にもう本当に私は合楽理念、合楽理念といわれるけれども何も分からなかった。今朝の御理解を頂いて漸く、はあ、合楽理念と分かったと言うんですよ。ほほうあんただんこの事だけに専念しとってからと、けれども実際に矢張り分かるという事は、もう実際に分かるという事は、もう日からその合楽理念の、言うなら実行者というか、行者としての発足というか、分からない間は、ただそれを行の上に現すはずもありませんし。
やっぱり同じ様な話でもです。昨日は三宝様と言う事を踏むなと、三宝様を大切なものとして聞いて頂いたんです。御教えには教典には穀物の意と書いてあるが、勿論穀物も命の根になるものですから大事。大切なものというのはたくさんある。親も大切なものであり、先祖も大切なものである。自分の心も大切なものである、ね、けども一番大切なもの、信心をしておかげを頂いてお徳を受けて行くと言う事のためには神様の恩働きその物を粗末にする様な事ではという御理解でしたよね。
神様の御働きが一人一人に違うのです、神様の御働きというもの。だから一人一人がその気。ならなきゃダメなんです。私の上に起きて来る全ての事柄に御の字をつけて、御事柄としてそれを頂いて行くと言う、それを頂いて行かないから、愈々目が遠くなったり薄うなったり、見えなくなって来るんですだと。それをいうなら大切なものと言う事を合楽理念に基づいて昨日は聞いて頂いた。だからいつもお話をしてる話でしたけれども、今日のご理解を頂いて始めて合楽理念が分かったとこういっております。
ですから合楽理念が本当に分かって、それを行じて行くならば、それこそ末永先生じゃないですけれども、人が助かるとかおかげを受けるとか、お徳を受けると言う事は、もう合楽理念によるより他にはないといっております。日々の信心の稽古なら、合楽理念に基づいて成り行きを大事にする。お粗末にしない生き方をして、言うならおかげの受け物が段々大きくなっていく。所が言うならばおかげがどこからか漏っておると言う事を。最近はなそうと思えば、子供でも成せる様な事をです。
疎かにしておるからだと言う事に分かりました。ですからそこん所を愈々大切にしていかにゃならんと言う事になります。だから今日はここん所だけでもよいから、一つ自分のものにして頂きたいと言う事はです、面倒くさいなと思った時にはね、ははぁいつもここからおかげが漏りおったなあと、一つ思うて貰いたいと言う事でございます。あぁせからしかなあ、ああ面倒くさいなあと思った時にです。
そのせからしい事面倒くさい事、その事をです本気で行ずる事、これは行ずると言う事になりゃ、なら子供でも出来る事なのです。面倒くさいと言う事やら、せからしいと思う事は。今日は皆さんが白紙になってここん所だけを一つ頂きとめて下さるといい訳です。もうよかよか修行を止める事です。教えをどんなに例え丸暗記した所でです、それをおかげの頂けない、なら昨日宮崎から今参っておられる方の頂き方はです。
教祖様は大きい声をする事もいらん、ふしを付ける事もいらんといわれるから、果してそれで本当に素晴らしい御祈念が出来るだろうか、成程段々出来るようになります。なら私も朝の一時間の御祈念というのは、拍手も打たなければ、天津祝詞もないでしょうがただ、何も言わんでじぃっと1時間座って心中祈念をしておるだけですから、クラッとも言わんです、けれども私となら神様の1時間の交流というものは、それこそ皆さんが想像もし得ないことなんです。なら、ここで皆さんが大祓い心行、大祓い信行と、もう口を開けば大祓い信行が出来とるのと私は聞きます。一日限りではできんばいという、私自身は大祓い一巻ならあげた事がないです。問題はね、神様と通うために大祓い信行を挙げるのです。、一時の御祈念に一生懸命、一心不乱に大祓いをそれこそ無我夢中になって挙げさせて頂いておるとです、どこからか分からんけれども力が湧いて来るだけではなくて感動が起こってくる。その感動がおかげを頂く受けものになるのです。
そんなら、教祖様がです、大きな声をしてはいけん、ふしをつけてはいけんと仰っとるじゃない。それで、自分の心の中に感動が起こるほどしのおかげが受けられるのならふしもつけてよいだろう、大きな声もさせて頂かなければならんと言う事になるでしょうが。だから教祖の御教えをね、おかげの頂けれる受けた方をしていかなければいけないと言う事なんです。まあそげん言わずに明日一時の御祈念を頂いてご覧なさいと、まあそういわれたたからではなかろうけれども。
一時の御祈念に参加してみて、それこそ老いも若きも一心不乱、大祓いを挙げておられる中に入らせて頂いたら、今までかつて感じた事のない感動を覚えたとこういっておられる。その感動がです、真に有り難いと思う心、すぐにみかげの始めと仰るように、その感動そのものがおかげなんです。だからそういう感動がいつも頂ける様になったら、もう声も出す事はいらん、ふしもつける事はいらんと、目をつぶって思うただけで神様がもう聞いてくださる。やっぱり稽古しなきゃいけん。
先日からえらい部厚い手紙がまいりました。ふっとこう中の便箋んをだしたら、ポロッと中に五百円札が一枚入っとる。途端に私の心の中にこの人がお金に不自由しとるなあと思うたんです。そしたら神様が「それが神心ぞ」と頂いたんです。こうりゃもうこんなに沢山お願いをしとって、たった500円どん入れちからとここで私が仮にでもちょっと思うたらもう助からんです。
献身じゃない金じゃないこれだけの沢山のお願いをです、けどもその500円というものは、なら沢山のお金をもっとる人の5000円にも匹敵するかも分からんのです。それこそ真心さえあれば庭の散り葉でもよいと仰るのです、それをなら私の心にもう瞬間感じたものがですね、難儀しておるなあと思うた。だからそういう心がなら、私は昔からそういう心が起こっておったという事ではないです。
稽古にけいこして行く内にです、金光教の信心は真心とか、真とか言うけれども本当はこの神心を目指すという事が金光教の独断的なもの、独自性なんです。金光教の一番すばらしいしょうてんは神心です。生神を目指すといわれるのでしょう。だからその神心がですどういう時にでも、瞬間ハット仕えれる事なんですから、そういう神心がいつも仕えれるようになったらそれこそ大祓いも、声も出す事はいらん、節を着ける事もイランと言う事になるわけです。
ですからおかげの頂けれる、お徳の頂けれる受け方、それには今まで覚えておった事、教祖はこげん仰しゃっとると言う様な事は、そんな事はいっぺんご破算にしてしもうていつも白紙で頂かにゃいかんと言う事です。ですから昨日はあぁ仰とるのにと言う事がない訳です。例え反対な事を言われてもです、そしてそれがおかげの頂けれる元だとね、言わば確信づけていく所の行が必要になってくる訳です。
信心をすれば誰でもが受けられる。所が実際には誰でも受けていない。受けん筈たい教祖様のみ教えをいっちょん守らんもん。教祖様は決して嘘を仰っていない。そこで信心とは信ずる心とあるから、それこそ神様には一分一厘間違いのない働きを下さるんだけれども、こちらの方が動きよるから、こちらが迷いよるからこちらがびっくりしてから、あっち行ったりこっち行ったりしよるけんおかげにならんのだと。
だからこの不動の信心というか不動の信念を頂くためにはどういう信心をさせて頂いたら良いのか、それをいうならば本気で頂こうと思うたら、難しい事はない誰でも頂けれるのが合楽理念であります。そしてその合楽理念によって、成程神様が間違いない事が分かってくるところから信ずる心が愈々生まれてくる。人間は弱い者はあ詳しい事が分かった、合楽理念をマスターしたと言うても、時々私共の心の中にです、はあ面倒くさいと思う事が起こってくる。
だからもうそげなんこつじゃからよかよかで過しよると、どんなになら素晴らしい合楽理念をマスターして、行じよってもですそのよかよかとか、その面倒くさいとか、ああせからしかと言う所からおかげが漏って行きよる訳です。だから大変なこれは由々しき事なんです、信心のおかげを頂き貯めると言う事、お徳にして行くと言う事。それをなら実意丁寧神信心とはそう言う事をいいよんなさる。私が夜中に必ずここへお礼に出てきます。そん時時々思う事があるです。
起きとってからまた顔を洗うて、そしてその寝巻きのままでもよかごたるばってんね、けど面倒くさいとやっぱし思う事もあるですけれどもね、そげん時は余計念を入れてキチット紋付袴をつけて出てきます。ほんなもうチョットばかりな間の事ですからね。だからその面倒くさいなあと、例えば神様に拝もう、( ? )入れもそうですよ、いちいち今日洗うとはせからしか、そのまま( ? )せからしかと思う時には、ははぁここからおかげが漏りよると思うて。
手を洗い口をゆすぎをしてご神前に出てきなさい、それこそおいさみがカチッとあるぐらいな神様の感動が起こってくるです。その辺の所が一番大事そう言う所から受けられる御神徳も受けられない事に、アレだけ熱心なアレだけ人にでけんごたる信心をしよんなさるけれども、成程その人が矢張りせからしがりやであり、面倒くさがりやであるから、そこからおかげが漏れよると言う事になったらおしいでしょうが。
今日私は言うならばです、誰でも御神徳が受けられる、今日お話を頂いて下さった方達が皆御神徳が受けれらるのが本当だなと、間違いはないなと言う様なおかげを頂いて頂きたいと思います。それには合楽理念を愈々マスターしていく、行の上に現していく事、そして子供でもなそうと思えばなせれる様な面倒くさいと思う事、はあここが大事な所だなと頂いていく信心の姿勢を愈々作っていく事だと言う事です。
どうぞ。